“佩刀”安藤直次(1555-1635)
德川家臣。綽號佩刀。少時起近仕家康,曾從軍參加姊川之戰,長筱之戰和長久手之戰。深得家康信賴,德川幕府建立後做為近臣參與幕府的政治活動。後擔任家康之子賴宣的監護人,赴紀伊。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2007/02/2817:48UTC版)
安藤直次(あんどうなおつぐ、1555年(弘治元年)?-1635年6月27日(寛永12年5月13日))は、戦國時代から江戸時代前期にかけての武將。安藤基能の長男で、安藤重信の兄。紀伊田辺藩(紀州藩附家老、明治維新までは大名とはみなされなかった)初代當主。正室は中根助右衛門の娘、継室は本多信俊の娘。子に安藤重能、安藤直治、娘(加賀爪忠澄室)。
幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに長篠の戦いにも參戦した。天正12年(1584年)からの小牧・長久手の戦いでは敵將・池田恆興や森長可を討ち取る活躍をし、家康から弓を拝領された。天正18年(1590年)に家康が関東に移されたとき、1,000石の所領を與えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍し、慶長8年(1603年)の家康將軍宣下にも參加して、慶長10年(1605年)正月には武蔵國において2,300石の所領を與えられた。そして、本多正純と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った。
慶長15年(1610年)、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた。その後も幕政に參與し、遠州橫須賀藩主・大須賀忠次の後見人にもなった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、年少の頼宣に代わって軍を率いて參戦した。このとき、夏の陣で子の安藤重能が戦死している。
元和3年(1617年)、遠州掛川城主となり、元和5年(1619年)に頼宣が紀伊に移ると、付家老として移り、同國田辺城に3萬8,000石の所領を與えられた。頼宣からは厚く信任を受け、後に頼宣は「自分が大名としていることができるのは、直次がいてくれたからだ」とまで述べている。寛永12年(1635年)5月13日に死去。墓所は三河國妙源寺。
直次の生年には天文13年(1544年)、天文23年(1554年)説もあり、詳しく分かっていない。