【1915】生徒17名からの出発
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學校法人白鴎大學の歴史は古く1915年大正四年まで遡る。
1915年、白鴎大學の前身足利學園は、足利裁縫女學校として、地域の発展と社會に役立つ人材の育成を目指す、女子教育の場として、創立者上岡長四郎によって、栃木県足利市に設立された。足利市は、15世紀室町時代に建てられた日本最古の學校『足利學校』を有する、教育にゆかりの深い歴史と伝統の地である。
女子教育への関心の薄かった當時、わずか生徒17名からの出発であった。
女子教育の重要性を、飽くなき熱心さで地域に説き続けた、當時、下野新聞足利支局の支局長であった創立者上岡長四郎は、白鴎大學の初代學長上岡一嘉の父である。「女子に実用の技芸を授け、婦徳を養う」という教育目標を掲げ、女子教育が地域の振興に貢獻するとの信念のもと、ジャーナリストから教育界への転身であった。
その年、米価が暴落し、3年後の1918年には米騒動が起こっている。そんな不安定な社會情勢の中、折からの資金難で、上岡長四郎が再び新聞界に戻り、実質上の理事長となったのが、上岡た津、白鴎大學初代學長上岡一嘉の母である。
上岡た津は白鴎女子短期大學初代學長としてその生涯を終えるまでの半世紀あまりを教育一筋に捧げた情熱的、獻身的な教育者であった。
個人指導の徹底を図ると同時に、「婦徳を養う」という教育目標にそって禮法の時間も充実させた。また、寄宿制度を取り入れたり、西洋スタイルの作法の実習を組み込んだ授業、さらに、近県からアメリカ人M.N.ホール女史を非常勤洋裁講師に招いて、本格的な洋裁の講義を開き、教育界の話題にもなったりする、進取の気性に富んだ魅力的な女性でもあった。上岡た津の生き方は、質素な良風、自主創造の気風として若い先生から生徒へと確かなかたちとして伝えられていった。
「自立をできる技能を身につけた女性を育成する」という建學の精神を具體化した、上岡た津の徹底した個人指導と、実踐的な教育は、今日、白鴎大學の少數精鋭主義、プラグマティックな教育方針に受け継がれている。
1927年(昭和2)2月 財団法人足利高等家政女學校となる
1951年(昭和26)2月 學校法人足利學園創立
1952年(昭和27)4月 足利學園高等學校(女子普・商・家)創設
1960年(昭和35)4月 足利學園高等學校に男子普通科を設置
【1960】グローバルな視點で世界を見る総合學園へ
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1927年、財団法人足利高等裁縫女子學校に発展。1940年財団法人足利家政女學校と改稱。第2次世界大戦終戦まもない、1949年足利家政専門學校と改稱し、同年、英語の重要性を確信した、上岡長四郎と上岡た津は足利英語學校を開設した。
また、1951年、學校法人足利學園が認可を受け、新學制による、足利學園高等學校、足利學園女子専門學校、足利學園中學が発足した。上岡た津は1956年、長年にわたる女子教育の伝統をいかし、幼稚園を開園。そして、1960年、女子教育ひとすじにやってきた學校は男子に門戸開き、高等學校に男子部が新設された。総合學園を目指す學園の新しい波が確実に実を結び、翌1961年には、少數精鋭の英才教育目指す足利學園中學校を創設。國際感覚を學園に導入する目的で、アメリカや西ドイツから専任講師を迎え、全國でも類まれな、先進的で実踐的な教育で注目を集めた。
また、上岡一嘉が掲げた『若い世代から親善の絆を』というスロ-ガンのもと、アメリカ、オーストラリアから留學生をスカラシップとして迎えた。
さらに足利學園高等學校は、同じアジアから留學生を招聘すると発表し、ザ・ストライト・タイムス紙が大々的にこれを取り上げたため、留學希望者が殺到し、シンガポール、マレーシアから6人の留學生を招いたのもこのころだ。
グローバルな視點で世界を見る、視野の広い學園の気風は、白鴎大學の伝統である。
1961年(昭和36)4月 英才教育を目標とした少人數制の中學校を創設
1962年(昭和37)4月 足利學園高等學校に工業化學科を設置
1965年(昭和40)4月 足利學園高等學校に自動車科を設置
1968年(昭和43)4月 足利學園高等學校の普通部・商業部・工業部3部とも全面的共學となる
1971年(昭和46)4月 足利學園高等學校に建築科を設置
1974年(昭和49)4月 栃木県小山市に白鴎女子短期大學(英語科・幼児教育科)を創設
【1974】のルネサンス 白鴎女子短期大學創立
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創設以來、社會に役立つ技術の習得と婦徳の養成を教育目標に、その伝統を培ってきた學園は、60年後の1974年「初心に立ち返り時代にふさわしい女子教育の場を」という上岡た津の想いから、小山市ルネサンスを迎える。白鴎女子短期大學の創立である。上岡た津のモットーである『つよく、やさしく』、この女性の理想像が〈白い鴎〉に託されたのである。この上岡た津の愛した言葉は、白鴎女子短期大學(現白鴎大學女子短期大學部)の校歌にも謳われている。
白鴎女子短期大學は、その教育理念を具體化させたかたちで、自立可能な技術を身につけさせることを目的に、英文科ではない「英語科」と「幼児教育科」、そして、日本初の女性だけを対象とした「経営科」が設置された。
1976年(昭和51)4月 白鴎女子短期大學に第2部幼児教育科を設置
1980年(昭和55)4月 白鴎女子短期大學に経営科を設置
1981年(昭和56)4月 足利學園高等學校に音楽科を設置
1982年(昭和57)4月 白鴎女子短期大學の経営科及び幼児教育科に専攻科を設置
1984年(昭和59)4月 足利學園高等學校に英語科を設置(富田キャンパス)
1986年(昭和61)4月 栃木県小山市に白鴎大學(経営學部)を創設
【1986】白鴎大學開學
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1983年2月、上岡一嘉は、研究者および大學の教師としての人生と、私學経営の総決算として、理想の大學の設立を目指し、白鴎大學経営學部構想を発表。國際化情報というビック・トレンドへの的確な対応を教育目標に掲げた。世界に進出するビジネス・リーダーの育成を目指し、語學はもちろん、幅広い國際感覚の涵養という社會的な要請に対しても、世界に開かれた大學を志向することを宣言し、1986年、単科大學として白鴎大學は開學した。こうして、インターナショナルな視野で、次世代を擔う実力者の育成に徹する「白鴎方式」というユニークな大學教育の幕が切って落とされた。開學當初からのこうした國際化教育の姿勢は、白鴎大學の大きな教育個性であり、アイデンティティとなるものである。
さらに上岡一嘉が胸中にあたため続けてきたユニヴァーシティ構想は、時代や地域の要請とともに、上岡一嘉が組織した學內プロジェクトによってひとつひとつ確実に実現されていく。
1990年、學校法人名を「學校法人白鴎大學」とし、1992年に法學部法律學科が、1999年に経営學研究科、法律學研究科の二つの大學院が、2001に経営學部ビジネス・コミュニケーション學科が加わり、さらに、2004年には、法科大學院および総合教育學部が計畫中である。
校歌に謳われているように、若き情熱の學府として、永遠に新しい學府として、白鴎大學は進化し続けている。白鴎大學の建學の精神は、ひとつひとつ具體的な形となって、一歩一歩確実に、理念が実現されていくのである。
1988年(昭和63)4月 白鴎大學経営學部に教職課程を設置
1989年(平成元)4月 足利學園高等學校に設備工業科を設置
1990年(平成2)4月 學校法人白鴎大學に法人名稱を変更
1991年(平成3)3月 足利學園高等學校の工業化學科を廃科
1992年(平成4)4月 白鴎大學に法學部(法律學科)を設置
1994年(平成6)4月 足利學園高等學校、足利學園中學校を白鴎大學足利高等學校、白鴎大學足利中學校に名稱変更
1996年(平成8)4月 白鴎女子短期大學を白鴎大學女子短期大學部に名稱変更
1999年(平成11)4月 大學院(経営學研究科・法學研究科)修士課程設置
2001年(平成13)4月 白鴎大學経営學部にビジネスコミュニケーション學科を設置
2004年(平成16)4月 白鴎大學女子短期大學部専攻科幼児教育専攻を廃科
2004年(平成16)4月 白鴎大學に発達科學部(発達科學科)児童教育専攻とスポーツ健康専攻を設置
2004年(平成16)4月 法科大學院法務研究科法務専攻を設置
2007年(平成19)4月 白鴎大學発達科學部を教育學部に名稱変更
2007年(平成19)4月 白鴎大學教育學部に英語専攻と心理學専攻を設置