宇都宮氏綱

宇都宮氏綱【1326年(嘉暦元年) - 1370年7月28日(建徳元年/応安3年7月5日舊曆)】下野國守護大名,公綱長子,貞綱孫。幼名加賀壽丸。拜領尊氏一字,改名氏綱。公綱提兵上洛,遂在南朝方作戰,而氏綱留守領地,卻率一族投北朝麾下。公綱在北畠顯家麾下進攻鎌倉的足利義詮,宇都宮家以“紀黨”芳賀禪可的意見舉兵援義詮,敗於顯家。後仍從義詮與南朝軍相抗。正平六年(1351)足利尊氏、足利直義斗於關東,氏綱從尊氏,力戰利根川、駿河薩埋等地。正平十八年(1363)關東管領足利基氏疑其叛,奪宇都宮家臣芳賀禪可之越後守護職,氏綱獨往小山陣地謁見基氏,證己之無異心,卒賴以無事。

基本資料

都宮氏綱【1326年(嘉暦元年) - 1370年7月28日(建徳元年/応安3年7月5日舊曆)】下野國守護大名,公綱長子,貞綱孫。幼名加賀壽丸。拜領尊氏一字,改名氏綱。公綱提兵上洛,遂在南朝方作戰,而氏綱留守領地,卻率一族投北朝麾下。公綱在北畠顯家麾下進攻鎌倉的足利義詮,宇都宮家以“紀黨”芳賀禪可的意見舉兵援義詮,敗於顯家。後仍從義詮與南朝軍相抗。正平六年(1351)足利尊氏、足利直義斗於關東,氏綱從尊氏,力戰利根川、駿河薩埋等地。正平十八年(1363)關東管領足利基氏疑其叛,奪宇都宮家臣芳賀禪可之越後守護職,氏綱獨往小山陣地謁見基氏,證己之無異心,卒賴以無事。

相關資料

は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武將。宇都宮氏第八代。父は宇都宮公綱。母は千葉宗胤の娘。
父が南朝側に仕えたのに対し、氏綱は北畠顕家が上洛途上で鎌倉を攻撃したとき、顕家から離反して足利尊氏の家臣として仕えた。そして尊氏の下で武功を挙げたため、上野と越後の守護職を與えられ、鎌倉公方として赴任してきた足利基氏の家臣として仕えた。しかし上杉憲顕と対立したことから基氏の怒りを買ってその追討を受け、守護職を剝奪された。基氏死後の1368年、これに不満を覚えていた氏綱は反亂を起こしたが、今度は基氏の子・足利氏満の追討を受けて降伏した。一命こそ助けられたが、失意のうちに1370年7月5日に45歳で死去した。

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