大川內伝七

日本軍人,1886年9月2日生,出身地:佐賀県,海軍中將勲一等功二級。1906年11月24日入海軍兵學校,1910年12月15日海軍少尉。1936年11月16日擔任日軍上海海軍特別陸戰隊司令官。1936年11月16日,死亡。

人物簡介

(1886.9.2-1958.2.13)
官位 海軍中將勲一等功二級
海兵37期 海大20期
出身地 佐賀県
明治19年9月2日生

簡歷

明治39年(1906)11月24日 海軍兵學校入校
明治42年(1909)11月19日 海軍少尉候補生 宗谷乗組 海軍兵學校卒業
明治43年(1910)7月16日 新高乗組
明治43年(1910)12月15日 海軍少尉任官
大正元年(1912)8月9日 海軍炮術學校普通科學生
大正元年(1912)12月1日 海軍中尉升進
大正元年(1912)12月20日 海軍水雷學校普通科學生
大正2年(1913)5月24日 淺間乗組
大正3年(1914)8月13日 生駒乗組
大正4年(1915)5月26日 肥前乗組
大正4年(1915)12月13日 海軍大尉升進 利根分隊長
大正5年(1916)11月6日 橫須賀鎮守府
大正5年(1916)12月1日 海軍大學校乙種學生
大正6年(1917)5月1日 海軍炮術學校高等科學生
大正6年(1917)12月1日 敷島分隊長
大正7年(1918)1月25日 欅乗組 艤裝員
大正7年(1918)11月9日 吾妻分隊長
大正8年(1919)8月1日 海軍兵學校教官 監事
大正9年(1920)12月1日 海軍大學校甲種學生
大正10年(1921)12月1日 海軍少佐升進
大正11年(1922)12月1日 球磨炮術長
大正12年(1923)11月10日 第2水雷戦隊參謀
大正13年(1924)12月1日 海軍炮術學校教官
大正15年(1926)12月1日 海軍中佐升進 第一艦隊參謀 連合艦隊參謀
昭和2年(1927)12月1日 海軍大學校教官
昭和5年(1930)12月1日 海軍大佐升進 橫須賀鎮守府
昭和6年(1931)4月1日 隠戸特務艦長
昭和6年(1931)11月14日 木曾艦長
昭和7年(1932)12月1日 海軍炮術學校教頭
昭和9年(1934)8月20日 淺間艦長
昭和10年(1935)8月1日 比叡艦長
昭和11年(1936)4月1日 橫須賀鎮守府附
昭和11年(1936)11月16日 上海海軍特別陸戦隊司令官 第三艦隊司令部附
昭和11年(1936)12月1日 海軍少將升進
昭和13年(1938)4月25日 海軍炮術學校長
昭和15年(1940)9月6日 支那方面艦隊司令部附
昭和15年(1940)10月1日 支那方面艦隊參謀長
昭和15年(1940)11月15日 海軍中將升進
昭和17年(1942)3月16日 軍令部出仕
昭和17年(1942)7月14日 第一南遣艦隊司令長官
昭和17年(1942)10月10日 勲一等瑞寶章
昭和18年(1943)9月20日 軍令部出仕
昭和18年(1943)12月1日 舞鶴鎮守府司令長官
昭和19年(1944)4月1日 軍令部出仕 海軍省出仕
昭和19年(1944)4月20日 海軍省電波本部長
昭和19年(1944)8月5日 海軍兵學校長
昭和19年(1944)10月22日 連合艦隊司令部附
昭和19年(1944)11月1日 南西方面艦隊司令長官 第三南遣艦隊司令長官 第十三航空艦隊司令長官
昭和20年(1945)1月8日 南西方面艦隊司令長官 第三南遣艦隊司令長官
昭和22年(1947)1月25日 復員
昭和33年(1936)11月16日 上海海軍特別陸戦隊司令官歳で死去

美保関事件

大正15年(1926年)11月以來、聯合艦隊司令長官加藤寛治は連日激しい訓練を強いており、小規模な事故が相次いでいた。その結果、翌昭和2年(1927年)8月24日、徹夜の夜襲訓練中に巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」の多重衝突事故が発生した(美保関事件)。この時連合艦隊は大混亂に陥ったため、高橋三吉聯合艦隊參謀長が旗艦「長門」の退避を提案、加藤も賛同した。それに対して大川內參謀が、「死傷者が多數出ているのに長官だけ先に帰るとは何事か」と怒聲とともに抗議し、絕句した加藤に代わって高橋が謝罪して前言を撤回し、事故の収束に當たった。

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