松村宗棍

松村宗棍

文道に三つと申すは詞章の學、訓詁の學、儒者の學と申候。 右の両學は只文芸の譽を得候迄にて、正當の學問とは申し難く候。 武道に三つとは學士の武芸、名目の武芸、武道の武芸有り。

人物介紹

松村宗棍幼年即具有很高的武術天賦,並拜佐久川寬賀學習唐手,在武術上逐漸嶄露頭角。成年後,松村宗棍前往日本薩摩藩琉球館任職。在此期間,他拜師學藝,從伊集院彌七郎處學得了示現流劍術,獲得「雲輝四段」的稱號,成為一名劍術家。1836年,他追隨師父佐久川寬賀前往清朝,拜京師王宮的武術教官違伯為師,學習中國武術。約一年後,武成達盡得其妙歸國。
墓碑

歸國後,松村宗棍當任琉球王宮的御側守役(要人警護職),歷仕尚灝王、尚育王尚泰王三朝。
琉球處分後,松村宗棍在首里崎山町的王家別邸御茶屋御殿教授唐手1899年,松村宗棍在首里逝世,享年91歲,葬於那霸市古島。著有《松村宗棍遺訓》。
松村宗棍的弟子多為空手道名人,其中包括了牧志朝、安里安恆、糸洲安恆、知花朝章、伊志嶺某、多和田某、本部朝勇和本部朝基兄弟、屋部憲通、喜屋武朝扶(喜屋武朝德之父)、桑江良正、義村朝義等人。

松村宗棍遺訓

松村宗棍遺訓
武術稽古の真味をしらずんばあるべからず。依て覚悟の程申し諭し候間、得と吟味致すべく候。
さて、文武の道は同一の理なり。文武共に其の道三つ有。
文道に三つと申すは詞章の學、訓詁の學、儒者の學と申候。
詞章の學と申すは、組語言を綴絹し文辭を造作して科名爵祿の計を求め候迄にて、訓詁の學は、経書の義理を見究め人を教ふる而巳の心得にて道に通ずる事情入れ申さず候。右の両學は只文芸の譽を得候迄にて、正當の學問とは申し難く候。儒者の學は、道に通じて物を格知を致し、意を誠にし、心を正しく推して以って家を斉へ、國を治め天下を平にするに至り、是れ正當の學問にて儒者の學にて候。
武道に三つとは學士の武芸、名目の武芸、武道の武芸有り。
學士の武芸は、頭に稽古の仕様相替り、成熟の心入り薄く、手數計り踴の様にて相成り、戦守の法罷り成らず、婦人同人にて候。
名目の武芸は、実行之れ無く方々去來致し、勝つ事計り申し致し、爭論或いは人を害し、或いは身を傷い、事に依りては親兄弟にも恥辱を與え候。
武道の武芸は、放心致さず工夫を以って成就致し、己が靜を以って敵の嘩を待ち、敵の心を奪って相勝ち候。成熟相募り候て妙微相発し、萬事相出來候共橈惑もなし、亂嘩もなし。忠孝の場に於て、猛虎の威鷲、鳥の早目自然と発して、如何なる敵人も打修め候。
夫れ武は暴を禁じ、兵をおさ(左は口+耳、右は戈)め、人を保ち、功を定め、民を安んじ、眾を和し、財を豊かにすと。是れ武の七徳と申し、聖人も稱美し呉れ候段、書に相見え候。されば、文武の道一理にて候間、學士、名目の武芸は無用にして、武道の武芸相嗜み候て、機を見て変に応じ、以って鎮める可き物をと存じ候間、右の心得にて稽古致し然る可き哉、と存じ寄るも候はば、腹蔵無く申し聞く可く希ましく候。 以上
松村武長
五月十三日
桑江賢弟

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