加害者家族

加害者家族

《加害者家族》鈴木伸元著,幻冬舎2010年出版。

內容介紹

日本の犯罪件數は年間約253萬件発生しています。犯罪は加害者と被害者の間で起こるものですが、通常犯罪によって被害者だけでなくその家族もマスコミの取材攻撃などで、直接事件に関系していなくても二次被害を受ける例は枚挙にいとまがありません。

その一方で、加害者家族も事件には直接関系していなくてもマスコミの取材攻撃や「世間」の誹謗中傷を受け悽慘な生活を強いられることになります。本書は、加害者家族が身內の犯罪を期に「世間」からどのような攻撃や誹謗中傷を受け社會的に追いつめられていく、あるいは社會的に抹殺されるかというプロセスが紹介されています。

1988年に起こった連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤元死刑囚)では、父親は多摩川に身を投げ自殺、2人の姉妹は長女が勤め差のスーパーを辭め婚約破棄、次女は通っていた看護學校を退學しています。また、この事件においては生活の激変は家族にとどまらず父親と母親の兄弟、宮崎勤のいとこといた親族にまで仕事の辭職や離婚というかたちで及んでいます。

犯罪を犯した加害者を厳罰に処すべきは當然のことに思えますが、當該事件はその殘虐性も手伝って世間の熾烈な責任追及が加害者家族や親族にまで及びました。世間という実體のない責任追及主體は加害者家族(事件の殘虐性の度合いによっては親族にまで)に無限の責任を負わせているようにも見えますが、果たして加害者の家族や親族は事件に対して正常な社會生活が奪われるほどの責任を負わねばならないのかという素樸な疑問を感じたところです。それゆえ、宮崎の父親と事件前から交流のあった新聞記者の次の一言にこの著書の言わんとしていることのすべてが凝集されているようにも思えました。

加害者の家族は、罪を犯した本人以上に苦しむことがあるのだということを、私はこの事件を通じて初めて知った。

加害者が未成年者である少年事件の場合は、親に責任があることは一般的に承認されており、それゆえ、裁判でも「親子関系が非行に與えた影響」などが斟酌されたりします。そして、世間という責任追及主體は少年事件に関しては親への必要以上の非難の矛先が向かいます。

「長崎男児誘拐殺人事件」(中學1年の男子生徒が家電量販店の7階建ての駐車場の屋上で4歳の男児の體をハサミで傷つけた上に屋上から投げ落とした事件)では、當時の防災擔當相の鴻池祥肇氏はこの事件に対して次のような発言をしています。

「こうした少年事件に対して厳しい罰則を作るべきだ。加害者の少年を罪に問えないのならば、親を死中引き回しにした上で打ち首にすればよい」

「少年犯罪は親の責任だ。マスコミにも責任がある。被害者の親だけでなく、加害者の親も引きずり出すべきだ。擔任の教師も校長もそうだ。」

鴻池大臣の時代劇好きが高じた時代錯誤な発言に反発して不適切発言だとする非難がなされる一方で、大臣の事務所には発言を支持する內容の意見が電話やメールで寄せられたという新聞報導もあったようです。

少年犯罪に対しては、更生を目指した保護法制で「教育刑」が強調されるところですが、當該事件に関しては世間の中には江戸時代の「応報刑」を支持する考えがあり、その矛先は犯罪を犯した少年よりも親に向けられています。犯罪に対する応報感情の強さは死刑存続を支持する有力な根拠でもありますが、未成年者が犯した事件について「親が死刑になるべき」という考えが日本の社會ではまかり通っているようです。

未成年の少年の犯罪で親が責任を問われるのはある程度當然としても、それによって仕事を失ったり(長崎男児誘拐殺人事件の加害少年の父親は料理店のコック長の職を失っている)、「打ち首にすべし」という非難を受けなくてはならないのでしょうか。

また、當該事件では加害者の男子生徒が通う中學校の生徒までも巻き込まれたという。「わざと體をぶつけて絡まれ」たり、「制服の胸についた校章をつかまれ」たりしたそうです。ぶつけたり、つかんだりする側には、かれらなりの正義があるのでしょうが、つかまれる側としては理不盡をとしか言いようがないように思われます。

子(とりわけ未成年者)の犯罪のため親が世間の厳しい非難にさらされることは、その親自身も「この非行は親の犯罪」としてある程度受け入れるところもありますが、その逆に親の犯罪のために子どもが犯罪加害者家族として厳しい非難や不利益を受けることについては、子どもが親を選ぶことができない以上、理不盡と思うところですが、実際には、親の犯した犯罪の重大性ゆえに薄倖の生涯をおくらざるを得ないケースがあります。

地下鉄サリン事件などの重大事件を起こし死刑が確定したオウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名:松本智津夫)の四女は通っていた學校のクラス擔任から≪「校長先生に呼び出されて、いきなり松本さんの擔任になれと言われたからびっくりしたよ。嫌とだともいえないし」≫という言葉をつきつけられたといいます。また中學でいじめに遭い、兄弟姉妹といっしょに教育委員會に対していじめ対策を要望したときに、校長から≪「あなたがたのお父さんは、たくさんの人を殺しましたね。あなたが死んでも、しかたがないでしょう」≫という言葉を投げつけられています。その後、父親が死刑判決を受けた時、四女は父親が起こした事件をインターネットや本で調べ、その真相を初めて知ることになります。そのプロセスで自分がどう生きていけばいいのか思い悩み、自らを不幸にすることで贖罪をする生き方を選ぶことになります。その四女の思いを本書では次のように書きとめています。

そして、両親、兄弟、元信者、オウムの関系者が、誰もきちんとした謝罪をしていない中で、せめて自分だけでも謝っていかねばならないと思うようになった。

オウムの関系者とは手を切り、ネットカフェを転々とし、ときにはホームレスとなって日々生活をしているという四女は手記の最後にこう記している。

「加害者の自分が、たとえ一時であっても全部忘れて楽しく過ごすなど、絕対に許されないことだと思うのです。」

この四女の場合は、父親の犯罪の重さについて、その娘である自分には「幸福になる権利はない」と自らを不幸な狀況におくことを選択しています。親が重大犯罪事件を起こしたこと、そしてその子どもはその負いようもない責任によって、ごく普通の幸福な生活をおくる権利を放棄しなくてはならないのでしょうか。

ここまで「世間」という言葉を使ってきました。犯罪加害者の家族に対する非難は匿名の人間たちによってなされています。その「匿名の人間たち」というものを指すのに「世間」が當てはまるのではないかと思ったわけです。「世間」とは準拠集団であり、「日本人の行動原理の基本」となっていました。*1犯罪とはその「世間」が示す「日本人の行動原理」に背くものであり、それゆえ犯罪者とその家族は厳しく非難され叩かれるのでしょう。そして犯罪加害者である家族も世間の構成員である以上、その非難に対して真っ向から反論することは難しく普通の生活から大きくそれた人生に激変し種々の不利益を受け入れていくのではないでしょうか。また、犯罪加害者の中には被害者家族に謝罪もせず、少年犯罪の場合、責任逃れをする親もいるが、それも犯罪に対して世間が責任追及主體として強力な力がありその圧力に押しつぶされないようにする反応なのではないでしょうか。

日本の社會では、犯罪に対しては「世間」という責任追及主體が加害者本人以上に加害者家族や親族、さらには関系者にまで厳しく追い詰める仕組みになっていることだけは間違いなさそうです。その責任追及主體は「正義」のお墨付きを得て犯罪加害者をヒステリックに責めることによってストレスのようなものを発散しているようにも感じるのです。

俗に「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、実際は、「罪以上に人とその関系者を憎む」というのが現実です。「罪を憎んで人を憎まず」とは、責任追及主體としての「世間」の暴走によって、犯罪加害者の家族や関系者を追い詰めすぎないようにするために生まれた言葉のようにも思えます。

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