乃木保典

乃木保典

乃木保典,是乃木希典之次子,1904年與其兄長乃木盛典死於日俄戰爭,死時為日本陸軍少尉,步兵第15連隊小隊長,死後追授為中尉。

人物簡介

乃木希典之次子,1904年與其兄長乃木盛典死於日俄戰爭,死時為日本陸軍少尉,步兵第15連隊小隊長,死後追授為中尉。

〈日本陸海軍綜合事典〉記載如下:

乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大將・乃木希典、靜子夫妻の次男。

華族。戦死時の階級は陸軍歩兵少尉(死後、1階級特進で陸軍歩兵中尉)。成城學校(現・成城中・高等學校)から陸軍士官學校へ進む。同期には梅津美治郎・河本大作・多田駿・谷壽夫がいた。。(歩兵科)。歩兵第15連隊小隊長。

來歴

1881年(明治14年)12月16日、乃木希典・靜子夫妻の次男として出生。

長兄・勝典と違い、両親の良い面を受け継いだ人物といわれる。

性格

乃木保典 乃木保典

保典は父親に似て前向きで明るく人懐こい性格で學才も母方に似て優秀であり、難関である陸軍士官學校の入學試験にも1発で合格している(兄の勝典は陸軍士官學校の入學試験に2度落ち、「3度目の正直」で漸く合格。それに対して勝典は僻むこともなく、二人の兄弟間の仲は良かったといわれる)。

日露戦爭に出征

日露戦爭が開戦され、歩兵第15連隊小隊長として出征。

出征前に母・靜子が東京・銀座にある高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水を買って來て渡し、保典はそれをお守りとして持って行く(當時の9円とは、一般の成人女性が精一杯働いて稼ぐ給與の約2か月分である。靜子がそれほどまでに高い香水を買って來て渡したのは、「もしも、戦死した後に遺體から異臭が放たれれば愛息子が不敏この上ない……」という、母親としての哀しいまでの想いであり愛の表現であった)。

兄の戦死

明治37年5月27日、兄・勝典は金州南山(通稱「金山」または「南山」)を、保典は203高地を進軍していたが、勝典がロシア軍の炮兵が放った銃弾に打たれ、腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き野戦病院に運ばれ、手術・治療を受ける。

勝典の負傷の知らせを受けた保典は比較的近い場所(203高地)を攻めていた為、進軍しながら幾度か勝典の様子を見に見舞っており、生きている勝典と最期に會った時、母・靜子のことを頼まれる。

勝典の戦死を見取ったのは勝典と同じ部隊に屬して金州南山を共に従軍していた若い陸軍軍醫であった。

約束、そして戦死

勝典の戦死の知らせを聴き、「交わした約束は必ず守る」と胸に刻んで203高地の攻略を誓ったが、當の203高地で旅団の副官任務中、ロシア軍の炮兵が放った炮弾を至近に受け、岸壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて戦死(即死)。

勝典との約束を果たすことが出來なかったのである。

死後

戦死後、父・希典は勝典・保典の2人をこの戦爭で亡くした為、「何としてでも勝たなければならない……」と想ったといわれる。希典は、戦友であり、良き理解者でもあった児玉源太郎大將とのコンビネーションで二百三高地を攻略、旅順要塞を占領した。

保典はその後、1階級特進で陸軍歩兵中尉に昇進、勝典と同じく青山霊園に葬られた。

相關詞條

熱門詞條

聯絡我們