栄花物語

藤原道長の死までを記述した30巻と、その続編としての10巻に分かれる。 1012年(長和元年)の夫匡衡が沒した後は信仰と子女の育成に盡くした。 なお、「栄花物語」続編の巻31から巻37までは出羽弁の作という説がある。

內容介紹

六國史の後継たるべく宇多天皇の治世から起筆し、摂関権力の弱體化した堀河朝の寛治6年2月(1092年)まで、15代約200年間の時代を扱う。藤原道長の死までを記述した30巻と、その続編としての10巻に分かれる。
正編30巻を赤染衛門、続編10巻を出羽弁の作とする古伝の信憑性はともかく、正編は後一條天皇の萬壽(1024年 - 1028年)の頃、続編は11世紀末から12世紀初頭にかけて、宮廷女性の手によって完成されたことに違いはない。一部文章が『紫日記』とまったく同文であり、あとがきには同日記から筆寫した旨が記述されている。
同時期に成立した紀伝體歴史物語の『大鏡』が男性官人の観點を貫くのに対し、編年體の體裁をとる『栄花物語』は女性の手になるため、構造や行文には『源氏物語』など少し前の女房文學の投影が色濃く見える。各巻に雅な名を冠すのも、藤原北家摂関流、中でも特に道長?頼通父子の栄華を謳歌する調べも、みなその現れである。道長についての記述に賞賛が多く見られることが特徴として挙げられるが、彼の晩年を襲った病苦や、摂関政治の裏面を生きる敗者の悲哀をも詳らかに描き出している。
『栄花物語』は『大鏡』とは対照的に批判精神に乏しく、物語性を重要視するあまり、史実との齟齬を多く有する。また、政事(まつりごと)よりも藤原北家の後宮制覇に重心を置くため、後編の記述は事実の羅列というしかない。歴史書としても、文學作品としても、『大鏡』に引けをとる所以である。

作者介紹

赤染衛門(あかぞめえもん 天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代の女房、女流歌人。中古三十六歌仙?女房三十六歌仙の一人。
赤染時用の娘といわれているが。母がまだ前夫の平兼盛と居た頃に妊娠し、再婚先の赤染家で出産したと思われる。従って実際には赤染時用の子ではなく、平兼盛の娘であると見られる(なお、後に彼女の親権を巡って兼盛と時用の間で裁判沙汰になったが、兼盛が敗訴している)。 夫の大江匡衡(おおえ の まさひら)は文章博士として有名。赤染衛門とは、おしどり夫婦として知られる。子に大江挙周(おおえ の たかちか)、江侍従(ごうじじゅう)らがおり、挙周の孫に大江匡房(おおえ の まさふさ)がいる。
赤染衛門は、藤原道長の正妻源倫子と、その娘である上東門院彰子に仕え和泉式部と並び稱された。和泉式部が情熱的な歌風なのに対して、赤染衛門は穏やかで典雅な歌風と言われる。1012年(長和元年)の夫匡衡が沒した後は信仰と子女の育成に盡くした。1035年(長元8年)関白左大臣頼通歌合や、1041年(長久2年)弘徽殿女御生子歌合などに出詠している。
出羽弁(でわのべん、寛弘4年(1007年)頃? - 沒年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。読み方についてはいでわのべんともいう。父については出羽守平季信とも、加賀守平秀信ともされる。
一條天皇の中宮上東門院彰子?その妹で後一條天皇の中宮威子、その娘章子內親王に仕えた。1033年(長元6年)には源倫子の70歳の祝賀で屏風歌を進詠したほか、多くの歌合で活躍した。
「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「出羽弁集」がある。なお、「栄花物語」続編の巻31から巻37までは出羽弁の作という説がある。また「六條斎院禖子內親王家物語合」によれば、物語「あらば逢ふ夜の」の作者とされる。

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