人物簡介
一條禪閣兼良(1402-1482)一條兼良(いちじょう かねら 応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日(1481年4月30日))は、室町時代の公卿・摂政関白で古典學者である。正式には「かねよし」。父は関白一條経嗣。母は東坊城秀長女。桃華叟、三関老人、御成恩寺などと稱した。
永享4年(1432年)摂政となったが、間もなく辭退。応仁(1467年)元年1月、関白に還補させられたが、同年9月に応仁の亂が勃発し、一條室町の邸宅と文庫「桃花坊」が焼失した。応仁2年(1468年)8月に、奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、『花鳥余情』『日本書紀纂疏』を完成させる。文明9年(1477年)、応仁の亂が終息し、12月に帰京。9代將軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で「源氏物語」を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好學の人々に學問を教えた。兼良は、當時の人々からは、「日本無雙の才人」と評され、兼良自身、菅原道真以上の學者であると豪語しただけあって、その學問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌、連歌、能楽などにも詳しかった。また、古典では従來の研究を集大成し、神仏儒教の三教一致を說いた。 文明13年(1481年)4月2日薨去。享年80。その死に対して、「五百年來この才學無し」とまで惜しまれた。墓は京都東山東福寺常楽院にある。