歴史編集
、結成
1981年、活動停止
1987年、ニューアルバム「ALICE X」を発売
2000年、第51回NHK紅白歌合戦出場により再結成
2005年、第56回NHK紅白歌合戦に出場、「狂った果実」「遠くで汽笛を聞きながら」を熱唱。
2009年、活動再開を発表、全國ツアーを実阿薩德撒颯沓施、第60回NHK紅白歌合戦に出場。
メンバー編集
谷村新司(たにむら しんじ、チンペイ/リードボーカル、ギター)
堀內孝雄(ほりうち たかお、ベーヤン/ボーカル、ギター)
矢沢透(やざわ とおる、キンちゃん/ドラム)
來歴編集
結成[編集]
1970年のアメリカコンサートツアーで、大阪のフォークグループ、「ロック・キャンディーズ」のリーダーだった桃山學院大學出身の谷村と、東京のソウルバンド、「ブラウン・ライス」のゲストドラマーだった矢沢が知り合い意気投合した。二人は帰國したらプロとして一緒にグループを組もうと約束する。
帰國後谷村は、同じ神戸の音楽サークル、ポート・ジュビリーで知り合いだった、アマチュアロックバンド、「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカルで京都產業大學出身の堀內をグループに勧誘した。
1971年12月25日に谷村と堀內で西心斎橋二丁目にあるビジネスホテル・大阪帝國ホテルの一室にて、矢沢が合流することを前提に「アリス」を結成。翌1972年3月5日、シングル「走っておいで戀人よ」でデビュー。同年5月5日開催の奈良市民會館での公演から、矢沢が正式に合流し、晴れて現在のアリスになった。
下積みから中心的存在に[編集]
プロデビュー當時はヒット曲に恵まれず、メンバー三人とマネージャーの合計四人で運搬できる楽器として、矢沢は本來ドラマーなのに手荷物として持ち運びが可能なコンガを持って、谷村、堀內のフォークギター二本とともにツアーやライブに明け暮れる毎日だった。
しかし、「特急の停まる市の市民會館にはほとんど行った(谷村)」と語るほどの地道なツアー活動をすることで潛在的ファンを増やしていった。1974年には年間303ステージという無茶苦茶な記録が殘っている。その中には知名度向上だけを目的にしたノーギャラ・交通費事務所側負擔の赤字ツアーもあったという。
ツアーの成果と、谷村のMBSヤングタウンやセイ!ヤングのDJ、そして関西カレッジフォーク界で有名だった立命館大學と同志社大學のOB三人組ウッディ・ウーの「今はもうだれも」のカバーヒットを契機に、オリジナル曲である「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「秋止符」「狂った果実」等のヒット曲を連発した。
1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。 日本武道館ではその後活動停止まで何回も公演し、他に後楽園球場、甲子園球場、橫浜スタジアム、といった當時の野球場や、東京厚生年金會館大ホール、大阪フェスティバルホールといった全國の主だった音楽ホールなどを軒並みに満員にするほど、アリスは多數のファンを獲得していった。 なお武道館のコンサートでは、谷村が當時DJを勤めていた文化放送ペパーミントストリート・青春大通りで、相棒を勤めていたばんばひろふみの司會で、生中継が行われた。アリスのライブレコード「栄光への脫出」や「限りなき挑戦」にも、ラジオを聴いているリスナーへのメッセージが収録されている。
1979年に、ユニセフの「國際児童年」の募金イベント「Hand in Hand 100円玉の大行進」に、テーマ曲として「美しき絆〜Hand in Hand〜」を提供するほか、自らも街頭で募金活動に參加した。「Hand in Hand 100円玉の大行進」は12月31日午後1時から1時間だけの募金活動を呼び掛けたものだったが、全國で約7萬3000人を動員した。その後、谷村の提唱で、音楽ファンの募金活動による音楽ホールの建設目指す「シアター・フレンズ」プロジェクトを、小室等、南こうせつ、井上陽水らとコンサート會場で始めるが、諸般の事情で挫折。當時の記録映畫「ALICE THE MOVIE 美しき絆」(東寶製作・坪島孝監督)が公開されただけ(この時期は文化放送ではなくニッポン放送で短期間だが毎周土曜日夜にこの「ハンド・イン・ハンド」にまつわるレギュラー番組があった)に終わっている。
活動停止[編集]
しかし谷村と堀內のソロ活動活発化とともに音楽の方向性の違いが顕在化して、1981年5月21日にアリスの活動停止を記者発表。北京・香港・バンコクの海外ツアーを含む最後の全國ツアーの後で1981年11月7日の後楽園球場のコンサート「アリス・ファイナル」を最後に活動停止した。
後に完全再始動をし、アリスとしてテレビ出演をした際に活動停止の真の理由について堀內が「チンペイさん(谷村の愛稱)へのやきもち(劣等感)」と語っている。これは、アリスとして(1978年12月発売、最大のヒット曲『チャンピオン』のグループでのメイン歌唱・作詞・作曲)、他者への提供(1978年11月-『チャンピオン』発売の約2周間前-、山口百恵の代表曲となり谷村本人をはじめ多くの歌手に歌い継がれている『いい日旅立ち』の作詞・作曲)、谷村新司ソロとして(1980年、谷村のソロの代表曲である『昴』のソロ歌唱・作詞・作曲)と才能をいかんなく発揮してそれぞれの形でヒットを飛ばしまくり、しかも時期がおおよそ重なったことによる。そこで堀內から谷村に、谷村を通して矢沢に活動停止の意向が伝えられ、谷村矢沢の両名がそれを受け入れたために活動停止に至った、とのことである。ただし、この際に谷村は「(活動を停止したら)そう簡単にアリスに戻ることは出來なくなるぞ(アリスは辛い時に駆け込む逃げ場所ではないという意味)。」と堀內に言ったそうである。なお、堀內が後にソロ活動で行き詰まり谷村にアリス再始動の相談を持ちかけたところ、同じようなことを言われたことがあるらしい。
堀內は実質的に演歌・歌謠曲に転向してソロ活動。谷村はソロ活動を一時休止して中國の上海音楽學院教授に就任、後にソロ活動も再開する。矢沢は音楽グループ「BLEND」(鷺巣詩郎もメンバーだった)參加ののち音楽活動を休止し、六本木で串焼きを中心とした飲食店と、神保町でギターショップを経営している。
再始動[編集]
活動停止後、アリスは4回再始動している。
1987年の1回目の再始動ではアルバム「ALICE X」シングル「BURAI」などの発表、そして數回の放送出演のみで終わった。
2回目の再始動は2000年1月17日神戸での阪神淡路大震災追悼コンサート開催が契機となって再結成の機運が高まったことによる。同年8月にアリス(Alice)名義からALICE名義に変更されて再結成が記者発表され、プレビュー扱いの同年12月31日の第51回NHK紅白歌合戦出場の後、2001年には1月17日の神戸國際會館でのコンサートを皮切りにアルバムALICE 0001発表のほか夏から秋にかけて全國ツアーも行われ、日本武道館が再び満員になった。
3回目の再始動は2005年12月31日の第56回NHK紅白歌合戦出場だった。
4回目の再始動は2008年3月19日発売の谷村のベスト盤「音帰し(おんがえし)」に「明日への讃歌」が収録され、堀內と矢沢もレコーディングに參加したというもの。これにより再結成の機運が高まった。2009年3月4日に上野文化會館大ホールで記者會見、3人が還暦を迎えるこのタイミングで28年ぶりの活動再開を発表。同年7月から11月にかけて全國ツアーを33會場で全35公演開催することを発表した。その後に決定した追加公演を含め最終的に36會場40公演を行っている。さらに,2010年2月28日に東京ドームでも公演を行い,休憩をはさんで5時間におよぶライブとなった。
エピソード編集
主に谷村と堀內がヴォーカルを擔當するが(矢沢もアルバム曲などでは歌っている)、メイン・シンガーがどちらかということもなく(ツイン・ヴォーカル)、ともにほぼ対等の立場だった(谷村が作曲の場合は谷村メイン、堀內の場合は堀內メインというパターンが多かった。ただし、代表曲『チャンピオン』など谷村作曲の場合は二人で歌うことが多い。この場合谷村が作曲を行っており、かつリードヴォーカルということもあり、やや谷村がメインに寄ることが多かった)。
鳴かず飛ばずの下積み時代が長かったが、「冬の稲妻」で大ブレイクし、當時黎明期だったニュー・ミュージック界の中心的存在のひとつと見なされるようになる。ただその落差の大きさから、地方局のラジオなどに出演した際には「大ヒット『冬の稲妻』でデビューした今話題のグループ、アリスです」(ジョークを含めた谷村談)などと紹介されていた。
無名の活動開始時期は、自他ともにフォークソングのジャンルに分類されるというポジションだったが、ドラムスが加わっているという點で、同時期のミュージシャンとの差別化を狙っていた。「冬の稲妻」でブレイク後は、フォークの枠にとらわれることなく獨自の世界を展開し、ファンを次第に獲得していった。曲調は次第にロック寄りになり、バックミュージシャンも、エレキギター、シンセサイザーなどを従え本格的バンド編成となり派手なステージ活動を展開していた。
このように結成時のフォーク・シンガーの路線の枠からは完全にはみ出ていたアリスだったが、1981年の休止ライブでは原點に戻り、コーラスもバックミュージシャンもない、3人だけでの演奏を行なった。
全盛期は『NHK紅白歌合戦』に出場しなかった。これは、アリスとしてNHKの番組オーディションに応募したが落選した経緯があるため、「意地として斷っていた」とのことである。