前田多門

前田多門

大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中學、一高、東京帝國大學卒業後、內務省入省。

経歴

1916年(大正5年)、後藤新平內務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の內務大臣官房都市計畫課長となった。 後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田宏、第3助役は前田多門であり、電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と稱された。

1928年(昭和3年)「朝日新聞」論說委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化會館館長、1943年新潟県知事など歴任。

1945年(昭和20年)貴族院議員となり、東久邇內閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原內閣でも留任したが公職追放となった。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。

財団法人東京市政調査會、日本育英會、日本ユネスコ國內委員會、日本ILO協會各會長、公明選挙連盟理事長等を歴任。

家族

長男は大江健三郎の東大時代の恩師でパスカル研究者のフランス文學者の前田陽一。

長女は精神科醫の神谷美恵子。

次女勢喜子は、ソニー第2代社長井深大の妻だったが長年別居を経て多門の沒後に離婚している(息子の井深亮「父 井深大」ごま書房に詳しい)。

著書

國際労働 岩波書店 1927  地方自治の話 朝日常識講座 朝日新聞社 1930 公民の書 選挙粛正中央聯盟 1936 新渡戸博士追憶集 高木八尺共著 故新渡戸博士記念事業実行委員, 昭11 アメリカ人の日本把握 育生社 1940 (新世代叢書) 山荘靜思 羽田書店 1947

翻訳

ジョン・ウールマン 警醒社 1914 積極修養と消極修養 ヒユー・ブラツク 実業之日本社 1914

関連人物

永田秀次郎・池田宏- 前田とともに後藤新平東京市長の補佐役として「畳」と稱された。畳の由來は"畳"の舊字型(ワ冠の上に3つの"田"の字が乗っかっている)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでいることによる。 田島道治- 宮內庁長官、前田と同じく初期のソニーに會長職で參畫した。 三谷隆信- 侍従長、前田も含めた三名とも新渡戸稲造門下 新渡戸稲造及び內村鑒三の門下生  田中耕太郎- 文部大臣、最高裁長官 南原繁- 戦後改革での両者との関系は、今日大いに議論されている。

參考文獻

『第廿一版人事興信録 下』昭和36年(1961年)、ま一六 『政治家人名事典』1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、479頁 『前田多門  その文・その人』同刊行會、1963年 黒沢英典『戦後教育の源流を求めて 前田多門の教育理念』內外出版、1982年 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、平成23年(2011年)。169-170、192-193頁。ISBN 978-4-480-06639-8前田多門「序」、『財団法人東京市政調査會四十年史』東京市政調査會、昭和37年(1962年)

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